FC2ブログ

覚書5/「この世界の片隅に」



(こうの史代/著 双葉社/刊)

コミックですが、この本も「読書」で括りたい気がします。
平成18年から21年にかけて「漫画アクション」に掲載された作品です。呉市を舞台に、昭和18年から21年の、ごくごく普通の家族の生活が淡々と描かれています。

とは言え、この頃は日本が敗戦に向かって転がり落ちて行く時代。
食糧や衣料の配給にも制限があり、炭団や保存食を手作りして不自由な生活をしのぐ庶民の智恵や、落ちて来た焼夷弾の対処の仕方等も随所に紹介されています。

少し天然気味な主人公・すずが、夫や婚家の両親、出戻りの義姉とその娘と肩を寄せ合いながら、微笑ましく周囲に溶け込んで行く生活も、次第に空襲が激しくなるにつれて陰を落とし始め、〈上〉巻と〈中〉巻のほのぼの路線から、一転して厳しさを増す〈下〉巻は、いささか読むのが辛くなります。

爆弾で失われた幼い姪の命とすずの右手。
そして広島市内への原爆投下。

実家の両親と妹の消息もわからぬままに、空をゆく米軍機に向かって
「そんとな暴力に屈するもんかね」とつぶやくすず。
しかし、8月15日、玉音放送を聞いた彼女は

「何で? そんなん覚悟のうえじゃないんかね?
最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?」
「いまここへまだ五人も居るのに! まだ左手も両足も残っとるのに!」
「うちはこんなん納得出来ん!」

と叫びます。
それまで一番おっとりしていたように見えた彼女が、大地に身を投げ激しく慟哭するのです。

「この国から正義が飛び去ってゆく」

そして日本の敗戦という事実によってひっそりと掲げられ、風にはためく太極旗を描き
「ああ、暴力で従えとったいう事か
じゃけえ暴力に屈するいう事かね それがこの国の正体かね」

「うちも知らんまま死にたかったなぁ…」と。

しかし、父の死、行方不明の母、原爆症に倒れた妹、廃墟と化した故郷、みんな誰かを探している街の人々…そうした現実に向き合いながら、再び戦いのない日常を取り戻した主人公たちは、お互いに思いやり、愛し合い、親を失った幼子を受け入れつつ、前を向いて朗らかに生きていく。

そんな余韻を響かせて終ります。

大切な人や大切なもの、大切な夢を失いながら自分の生きる場所を守るために懸命に耐えた人ほど、この終戦にやり場のない憤りを抱いたに違いありません。
国の正義とは、大切な家族の命と引き換えにする価値のあるものなのか。
愛する人を失ってまで、守るべき「国」とは何なのか。
たとえ「国」という形が滅びたとしても、人々は逞しく生きて行かざるを得ません。
変わりゆく時代の中で、何が人を支えるのか。それをしみじみと語りかけてくる作品でした。

スポンサーサイト



2 Comments

はなせんめい  

No title

日本が絶対勝利すると思っていたのに、敗れてしまったときの国民の心情が描かれているのですね?
どれほど絶望したことでしょう・・・明日をどうやって生きていこうか、何を生きがいとすればいいのか、希望がない状態でただ生きていた時代を、平和な現代を生きる私には想像すら出来ません。
そんな当時の人々が立ち上がり、今日の平和な日本を作ってくれたことに、感謝するばかりです。

2014/12/25 (Thu) 10:41 | EDIT | REPLY |   

ちぇしゃ猫  

No title

はなせんめいさん、こんにちは。
絶対勝利すると思っていた、というよりも、戦時中の苦しさや悲しみを耐えるための建前であった日本の「正義」というもの、
「欲しがりません勝つまでは」
「最後の一人まで」
という精神的なスローガン、それが原子爆弾やソ連の参戦という暴力の前に、あっけなく消し飛んでしまったことへの絶望ではなかったかと。
本当に正しいのであれば、庶民は竹槍でB29をたたき落とすつもりでいたと思うんです。それがいかに非論理的であろうとも。
「暴力」で他国を従えようとしていたから、「暴力」で屈してしまった。
ならば自分たちは何のために、誰のためにこれまで戦って来たのか。周囲の人たちが、敗戦をサバサバと割り切る中で、ひとり主人公だけがそこに拘っていた意外性。
今、やたらと「国」を前面に押し出し、押しつける人たちが増えていますが、「国」っていったい何なのかな?と思います。
オリンピックの金メダルを喜ぶ程度ならいいのですが、偏狭なナショナリズムを煽りすぎると、取り返しのつかないことになるのではないかと危惧しています。

2014/12/27 (Sat) 11:26 | EDIT | REPLY |   

Post a comment