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「赤壁賦」 1-4

趙孟頫の「赤壁賦」は先月の臨書課題でした。
半切に仕上げるまでは出来ませんでしたが、半紙で練習に取り組むうちに、習ってみたい気持ちがむくむくと湧き起こり、今回ヤフオクで法帖を手に入れました。
これから少しずつ臨書に取り組んでみようと思います。




趙孟頫(ちょうもうふ 1254-1322)

南宋から元にかけての政治家、文人(書家、画家)。字は子昂、号は松雪、呉興(浙江省湖州市)の出身。出自は、宋の宗室で、南宋二代皇帝孝宗の弟の家系に当たる。字から趙子昂、号から趙松雪と呼ばれることも多い。

南宋の真州(江蘇省儀徴県)の司戸参軍に任官するも、宋室の滅亡によって、官途を離れる。
1286年(至元23年)に、元の世祖皇帝クビライに招かれて大都に行き、兵部郎中となったが、宋を滅ぼした元王朝に仕えたことは一族からも批判され、一族の縁を切った者さえいたという。元に仕えたことにより、後世の評判も芳しくない。 以後、歴代の元の皇帝のもと、集賢院や翰林院の学士となった。
(Wikipediaより)

地位と名誉には恵まれながらも、趙孟頫の精神生活は必ずしも良好であったとはいえない。
しかし書人としての趙孟頫は、その精神的苦渋とは無縁といえるほどに明るくのびやかな書をかき、復古主義に終始した。おそらく元という蒙古人政権の支配下では中国伝統文化は価値あるものとしては認識されず、「一官、二吏、三僧、…九儒、十丐」のことわざから知られるように、儒すなわち教養ある人士が重要視されなかったことは事実であり、学問、文化、芸術などは言うまでもなかった。こうした時世では、中国伝統文化の向上や、新生面を切りひらくことなど思いもよらぬことである。唯一残された道は、旧来のものを大切に育んでいくことであり、趙孟頫は元朝に仕えてみて、このことを痛感したに違いない。書において彼は二王(王羲之・王献之)を頂点とする晋唐の書を正統と考え、これを次代に伝えることこそ自分の責任であり、また自分こそその責任を果たしうる人物であると自負するに至ったものと思われる。
(中略)
総じて、趙孟頫の書はのびやかで美しく、その価値は高いが、近づきがたいとされた晋唐の書は、彼によって消化再生され、近づきやすいものになった功績も見のがされてはならないだろう。
(中国法書選49「趙孟頫集」解説より)


「赤壁賦。壬戌之秋。七月既望。蘇子與客泛舟。遊于赤壁之下。清(風徐來)
赤壁賦。壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望、蘇子 客と舟を泛かべて、赤壁の下に遊ぶ。」










やはり書いていて気持ちがいい書です♪

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2 Comments

はなせんめい  

No title

こんな立派なかたの書を学べる現代の私たちは幸せですね。
のびのびと書かれていますね。

2015/03/09 (Mon) 18:15 | EDIT | REPLY |   

ちぇしゃ猫  

No title

はなせんめいさん、そうですね。
こうした方々のおかげで、優れた文化が絶えること無く後世に伝わっているのだと思うと、感謝してもしきれない程です。

智永の書のような親しみもありますね。
しばらく趙孟頫の臨書にお付き合い下さい。

2015/03/09 (Mon) 23:23 | EDIT | REPLY |   

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