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覚書6/情況への発言~靖国そして教育



(高橋哲哉/著 青土社/刊)

安倍首相が、靖国神社の春季例大祭に真榊を奉じたと言うニュースを見た。

時事通信 4月21日(火)6時28分配信
 安倍晋三首相は21日、東京・九段北の靖国神社で始まった春季例大祭に合わせ、祭具の真榊(まさかき)を奉納した。23日までの春季例大祭の期間中の参拝は今年も見送る。首相の歴史認識に神経をとがらす中韓両国との関係や、26日からの訪米を控え、外交的な配慮を示したとみられる。
 真榊は「内閣総理大臣 安倍晋三」名で、真榊料の5万円は首相の私費で納められた。菅義偉官房長官は21日午前の記者会見で、「首相の私人としての行動であり、政府として見解を申し上げることはない」と述べた。塩崎恭久厚生労働相も真榊を供えた。
 また、衛藤晟一首相補佐官が21日昼に参拝。この後、記者団に「幾久しい平和を祈念した」と語った。
 靖国神社は、春と秋に行う例大祭を最も重要な祭事と位置付けている。2012年12月の就任以降、首相は13年12月に同神社を参拝しているが、例大祭に合わせて参拝したことはなく、真榊を奉納してきた。


幾度となく繰り返される為政者の歴史に対する無知と無反省。
そして、記事には「当然のこと」と擁護するネットユーザーのコメントが並ぶ。先の戦争に対する反省と近隣諸国への謝罪を幾度となく口にしながら、この国の本質は、戦前と何も変わっていないと思う。

マスコミも政府要人の靖国参拝を批判するが、なぜ彼らが靖国神社を参拝してはならないのか、残念ながらその本質を、マスコミ関係者も理解していないようだ。
その中で、この本はまさに、靖国神社とは何か、何を問題とすべきかを明確にした良書であると思う。

2005年、当時の小泉首相が参拝を断念した直後に、高橋氏は「政教分離原則の改悪に警戒をー靖国参拝合憲化が進む危険性」と題する評論の中でこう書いている。


参拝が行なわれれば、中国・韓国からの批判が再び高まるであろう。そのとき、日本の政治、メディア、世論はどのような反応を見せるだろうか。「近隣諸国への配慮」を理由に、小泉首相の責任を追及するのだろうか。それとも両国からの批判を「内政干渉」として「嫌中・嫌韓」の気分を募らせ、「ナショナリズムにはナショナリズムで」対抗しようとするのだろうか。
「近隣諸国への配慮」による「参拝見送り」論と、「内政干渉」に屈せず「参拝すべきだ」という論と。議論がこの二つに収斂しているところに、私は大きな疑問を感じている。というのも、この二つの論は一見対立しているように見えるが、ある重要な問題を忘れている点では同断だからである。
近隣諸国との関係をこれ以上悪化させてはいけない(これは正論だ)から、とりあえず今回は参拝を見送るべきだーこう考える人は、中国や韓国からの批判がなかったら首相の参拝自体には問題がない、と思っている。両国からの批判を「内政干渉」とする論者は、首相の靖国参拝を「内政」上の問題として議論しようというのではなく、やはりそれ自体は問題がないという立場であろう。「内政干渉」と叫ぶことによって、問題を両国との「ナショナリズムの抗争」として描き出し、日本人の「国民感情」を味方に付けようとの意図が見え透いている。いずれにせよ二つの論は、首相の靖国参拝が「内政」上は何ら問題がない、と考える点で一致しているのである。


この視点がどのマスコミにも欠落していると、私も思う。そして高橋氏は、首相の靖国神社参拝は、「内政」問題として考えても、憲法の政教分離原則に違反するのではないかという重要な問いを提起するものであり、自民党が一貫して憲法の改正案に、この政教分離原則を対象としてきていることを挙げ、二〇条三項の国及びその機関の宗教教育・宗教的活動の禁止や、八九条の国・自治体の宗教活動に対する公金支出禁止に対して「社会的儀礼の範囲内」であれば許されることにしようとすることに警鐘を鳴らす。


日本国憲法の政教分離原則は、国家神道が帝国のイデオロギーとして天皇主権国家を支え、破局に至った教訓から学んで、国家と神道を切り離し、天皇主権の「根拠」を否定して、主権在民を可能とするとともに、信教の自由を保障するために導入された。
ところが、自民党案で政教分離の例外とされるのは、今日まで曖昧なまま存続してきた国家と神道との癒着関係にほかならない。つまりこの「改正」は、政教分離が否定しなければならなかった当のものを例外として認めることで、政教分離の核心をなし崩しにするものなのだ。


さらに2007年3月、シカゴ大学での講演「『戦後』のリミットに立つ日本」で、高橋氏は靖国神社とは何かをこう述べる。


ここで、靖国神社が支えた戦争の歴史的評価から、そこに祀られた戦死者の戦死という出来事に目を向けてみよう。すると、靖国神社は単に戦争の侵略性とその責任を否認する性格をもつだけでなく、戦死者の戦死を「名誉の戦死」としてまつり上げることによって、そもそも出来事としての歴史を否認する装置であることがわかる。
靖国神社は兵士たちの戦死の実態をいわば「偽造」する。すなわちそれを、戦場での無惨な血塗られた死から、崇高で英雄的な「名誉の戦死」へと神聖化していくのである。
(中略)
その言語に絶する悲惨さは、しかし彼らが靖国神社に祀られることによって不可視化される。かれらは国家を守るという崇高な目的のために敵と英雄的に戦って潔く死んだ「英霊」となる。もとより「餓死」だけではない。戦場での戦闘死自体が悲惨である。ところが靖国神社は、その戦死のおぞましいもの、血塗られたもの、腐ったものすべてを拭い去り、「神」の「聖なる」空間、崇高な「神域」のなかに戦死を「昇華」してしまうのである。
とくに重要なのは、遺族感情への働きかけである。戦死者遺族の悲しみ、悼みの感情は、これを放置すれば、戦争とそれを遂行する為政者への疑問、批判、怒りにまで転化する可能性がある。戦死者を靖国神社に祀る臨時大祭と、その際の天皇の参拝は、この遺族の悲しみを喜びへと一八〇度転換させる「感情の錬金術」が働く場面であった。
(中略)
このように、靖国神社と天皇参拝は、遺族に戦死を容認させ、国民一般に戦争を肯定させていくために決定的な役割を果たした。日本の軍人・軍属のすべての戦死は、このプロセスを通して、実態がどうであれ、「国家のために命を捧げた自己犠牲の行為」として聖化されていくのである。


「靖国神社は、遺族の行き場のない怒りや悲しみを、宗教を装って別の形に昇華させるための装置にすぎない。」

『靖国神社』とは、父や夫、息子を失った国民の苦しみや悲しみを、国家に向けることなく他所へそらすための、国が作った《装置》だと思う。」

とは、私が過去に書いてきたものであるが、《昇華》《装置》という言葉の符号に、やはり間違っていなかったと言う自信を持った。

高橋氏は、このシステムに不可欠なのは天皇による靖国神社参拝だと言う。
昭和天皇は、1975年を最後に靖国参拝をやめていた。それは、2006年に日経新聞がスクープしたいわゆる「富田メモ」により、1978年に靖国神社がA級戦犯を合祀したことに対する不快感がその理由だと明らかにされている。
そして現天皇も、天皇としては一度も参拝を行っていない。
しかし高橋氏は、分祀すればOKという論調を導くことになり、靖国の国有化に道を開くことに繋がりかねないので、A級戦犯合祀に拘ることは慎むべきと述べる。

靖国に祀られた「英霊」の遺族はもとより、神道をもって国民の意識統合をはかりたい勢力にとっては、天皇の靖国参拝は悲願だろう。
それなくしては「崇高で英雄的な名誉の戦死への神聖化」というごまかしは完成しないからだ。そして、それを誰よりも理解して、必死で抗っているのは、他ならぬ天皇自身ではないかと私は感じている。
皇太子時代からの激戦地への慰霊の旅は、先日パラオのペリリュー島に及んだ。

天皇の名の下に行われた戦争だったにも関わらず、昭和天皇が責任を一切問われなかったことに対し、誰よりも忸怩とした思いを抱いて生きてきたのではないか。
国の「象徴」とはどうあるべきなのかを常に模索しながら、決して歴史を後戻りさせないよう、努力して来たのではないか。

私は天皇制は支持しない。人は等しくその権利を尊重されるべきだし、戸籍もなく参政権もなく、自分の意見を公に述べることすら許されない、言わば逆差別という視点から、こんな制度はない方がいいと思っている。
しかし、今、この時代に、この人が天皇で良かったと、心から思う。

慰霊碑に向かって深く頭を垂れる天皇の後ろ姿を映像で見ながら、安倍首相が安っぽく口にする「哀悼の誠」とか「慰霊」の正しい意味を考え、天皇の恐らく孤独な闘いに思いを馳せる。

都合の悪いことをなかったことにし、歴史を正しく見つめないのなら、謝罪も誠意も伝わるはずがない。靖国神社の正体を日本人自身が理解していないから、謝るふりをしながら舌を出すようにしか見えないことがわからない。

中韓との関係修復は、ひとえに日本の歴史認識にかかっていることに、そろそろ気付かなければならない。

政治家もマスコミも忘れている論点を、改めて明確にしてくれる一書である。

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4 Comments

北京老学生  

No title

この記事の内容に賛同します。特に外圧?を理由として靖国参拝を論議する人々は、賛成の人も反対の人もメダルの裏表の関係にあるという指摘(高橋氏の記述からの引用ですが)の部分は、そのとおりだと思います。
また、天皇制について『支持しない』とお書きになりながら、現在の天皇の『恐らく孤独な闘い』に共感を寄せるという部分についても、同じように感じるところがあります。ただし、現在の天皇の次は、たとえ一時的であれ、今の皇太子に継がせたくない(雅子様のことが口実になっているようですが)という思いは、権力者の側の多くの部分の共通の意思であるようにも感じています(週刊誌等のキャンペーン記事を見ると)。
そうすると、秋篠宮ご自身か、その系統に皇位は継承されていく可能性がある。仮にそうなると、皇位が別の人格の人(まあ、皇太子であっても同じですが)に移ると、果たして戦争に対する思い(あるいは、憲法に対する思い)はどうなのか?
その辺は、私たちには、さっぱりわからないわけです。権力者にはわかっているかもしれませんが。その辺に、天皇制というものの恐ろしさというものがあるような気もしています。

2015/04/22 (Wed) 06:44 | EDIT | REPLY |   

ちぇしゃ猫  

No title

北京老学生さん、おはようございます。

今日も100人を超す国会議員が行き、極右女性3閣僚も参拝を検討しているそうです。国会議員とあろうものが、なぜこの程度のことを知ろうともしないのか理解に苦しみます。もしかしたら知っていて知らぬふりをしているのでしょうか。
過去の歴史に対して、実に不誠実な態度です。

吉見義明氏の「従軍慰安婦」とこの本と、どちらを先にするか迷っていましたが、こちらの方がタイムリーだと思い、先に上げました。

そうですね。
問題は100円玉の裏か表かではなく、あなたの持っている1万円札は偽物だよ、と言うことなんですけど。そういう指摘はあまりに少ないですね。
国家神道を楯に、自国民に対しても自由な言論を弾圧し、投獄し、命を奪ったという事実を知らない人が多過ぎます。自国民にすらこの扱い。ましてや植民地化し見下していた近隣諸国に対してはいかばかりだったかは、想像に難くありません。

2015/04/22 (Wed) 11:07 | EDIT | REPLY |   

ちぇしゃ猫  

No title

今の天皇一家を見るにつけ、「絶滅危惧種」という言葉が浮かびます。2006年、秋篠宮家に実に久しぶりに悠仁親王が生まれましたが、男系に拘る限り、側室制度でも復活させなければ、いずれ家系が絶えるのは必至です。悠仁親王の誕生は、時期的にもタイミングが良過ぎて、実は体外受精だったのではないかと疑っていますが、そのような手段をとらざるを得なくなるでしょう。まるで朱鷺の繁殖のように。
そこまでして天皇家を継承することの意味は、果たしてどこにあるのでしょうか。

現実の問題として、例え男子が産まれても、雅子妃への異常なバッシングを見れば、嫁が来るはずがありません。
私のような天皇制廃止論者は、ただ待てばいいのです。

それとも旧宮家を復活させるのかしら。竹田など、死んでもお断りですが(笑)。

2015/04/22 (Wed) 11:08 | EDIT | REPLY |   

ちぇしゃ猫  

No title

昭和天皇が一夫一婦制をとられた時点で、天皇家は衰退の道を静かに進み始めたと言えます。
それは、いつの時代も利用され続けた自らの存在を、ゆっくりと抹殺していくつもりなのかもしれません。

最近、皇太子、秋篠宮ともに、今上天皇と先の戦争についてよく語り合っていた旨の話がありましたが、天皇しか抱き得ない思いが、しっかりと二人に継承されていると信じたいですね。

2015/04/22 (Wed) 11:27 | EDIT | REPLY |   

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