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サルスベリの街

秋には気づかなかったが

「ここはサルスベリの街だ」

そう思った。


起伏の多いバス通りの両側に植えられたサルスベリの木が、赤い花房を風に揺らしているのを助手席で見ながら「ここの街路樹は全部サルスベリなんだね」と呟くと、隣の兄が「そうだな」と答えた。


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腸閉塞のため食事が取れなくなり、介護施設から療養型の病院に移ったが、栄養をカテーテルから注入するようになって1年以上が過ぎていた。細菌による発熱で何度か中断・再開を繰り返していたが、ここしばらくは心機能の衰えが見られ、排出できない水分で体がむくみ、点滴のための血管を見つけることが難しくなっていた。

6月の末に「これ以上の措置は本当に本人のためになるのか。もう限界ではないか」という医師の見解に基づき、兄妹で話し合ってカテーテルを中止してもらうことに決めた。

あとは水分点滴のみで低空飛行を続けながら、持っても今年いっぱい、ただその低空飛行がいつ終わってもおかしくはない、という見立てだった。

「間に合ってくれ」と願い続けた次女の出産を終え、そろそろ落ち着いたのを見計らって、に会うために上京したのは7月半ば。

出産直後に送った写真を、「ちゃんが産んだおさんの曽孫だよ」と妹が見せても、もうにとっては「ちゃんって誰?」状態だったであろうことは想像に難くないけれど、とにかく「曽孫が無事に産まれた」という報告は間に合った。


兄が車を出してくれるというので、サルスベリの咲く道を、兄と妹と3人で病院に向かった。


去年の11月に見舞った時には「ここは嫌だ。一緒に帰る」と騒ぐのをなんとかなだめたのに、ベッドの上のはもうそんな元気もなく、しばらく見ないうちにひと周り萎んだように見えた。毛布の下に手を入れて、眠っているの手をしばらくさすっていると、わずかに目を開ける。

子だよ。会いに来たよ。わかる?」

と尋ねるとかすかにうなづく。

「痛くない? どこかしんどいところはない?」

またうなづく。

わかっているかどうかも疑わしいが、私を見ながら眉間に少しシワを寄せて何かを考えているようだ。そのうちにトロッと母のまぶたが閉じ、再び眠りに落ちた。

子宮に抱えたがんの痛みが出てかなり強い鎮痛剤を使っているために、今は1日のほとんどを眠って過ごしているということだった。

多分、生きている母を見るのはこれが最後だろうと思うと、やはり涙が出る。


こんな時の兄妹の話題はどうしても「その時」を迎えたらどうするか、という話にしかならないが、とりあえずは今すぐという状況ではなさそうなので、兄と妹に任せるしかない。


その後も、週末ごとに病院へ行ってくれる妹の報告を聞きながら、この調子だと手が取れそうな11月まで持ってくれるかも、と少し淡い望みを抱いていたが、30日、とうとうその知らせは届いてしまった。

「今、病院から連絡があって、血圧の上が50を切り意識レベルも低下しているので、この状態ではいつ心臓が止まってもおかしくないそうだから、今はいつでも行けるようにしている」

との兄からのメール。それでも翌日、妹が病院に行った時には、少し辛そうだったが意識は案外はっきりしていたらしい。

妹の「今家に帰ったよ」という連絡の後に私は外出していたため、その後の兄からの電話は夫が受けた。


「7時35分。母の呼吸が止まりました」

医師の診察を経て死亡宣告は1949分。89歳の誕生日まであと1週間だった。


その夜は追善の祈りを捧げつつ、忘れかけていた母との思い出、折々の姿を思い浮かべながら、覚悟していたとはいえまた少し涙する。


翌朝、9月1日。新しい季節の始まりだ。

いつものように8月のカレンダーを破ろうとして、ふとためらった。

それは、8月の終わりに時を止めた母を、一緒に断ち切るような気がして。


今じゃなくてもいい。もう少し、もう少し時間をこのままで。


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9月6日に生まれた母は、その同じ日に灰になり、兄の家に戻った。

サルスベリの街を見ることはもうない。


88年と11ヶ月25日の人生。お疲れ様でした。そしてありがとう、お母さん。

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